マンシオンに住まふ

マンション生活やその他諸々

歴史の中で語られてこなかったこと

 

 江戸時代に”都市が村になった”ことがあった

網野 村の中に都市ができるのを「町村」といったというのが今までの通説ですね。

宮田 そう聞いてますね。

網野 ところが、今の能登の例でもわかるように、まぎれもない都市、港町を最初から制度的に村の扱いにしてしまうわけです。

宮田 行政単位として?

網野 そうです。行政単位として町にするのはほとんど城下町だけです。

(中略)

網野 最終的には、浦や津のような海村も、都市も、山村も全部田畑をもつ「村」にしてしまうわけですね。中世までは山、野、河、海はそれぞれ独自な世界で、検注の対象にもなっていますが、近世社会はこれらを独自な行政単位にしないで、浦や津や野は全部「村」にしてしまうのです。そして城下町など、ごく一部の都市だけを町にします。そういう区分にしたのが、16,17世紀の特徴だと思います。そういう方向で国民国家が作られてゆく。

宮田 国民国家は「定住社会」を基礎にするわけですよね。

網野 農業、農村を中心にしようとする国家意志が近世にはっきりと働いています。もちろん、社会の実態はむしろ非農業の比重が大きいのですが、制度の形はその方向で作られていくわけです。農業以外の生業はみな「農間稼」、農業の副業にされていまいます。

(オカヨ解説)多元的価値観世界であった中世から、一元的価値観社会である「国民国家」の形成がはじまる近世においては、上記のような変化がみられた。そして、日本においては国民のほとんどが農業を生業としている農民である、という誤解が生じてしまうのである。

 

誤解されている二男、三男のあり方

網野 二、三男のあり方を、いつも悲惨な方向に持って行って、土地も分けてもらえないから「結婚もできなくて」という話になることが多いのですが、都市や村落で展開されている日本社会の非農業部門は、われわれが思っているよりもはるかに広く、比重が大きいのです。ところが百姓は全部農民だから8割が農民だ、という今までの感覚、間違った思い込みで江戸時代を見ると、その実態がまるでわからなくなります。

 今までは田畑を中心に考えすぎてきましたので、二、三男は分けてもらう土地がない、ととらえられてきたのですが、彼らの活躍する舞台は意外に広いのです。

(中略)

 「80%が農民」というのは絶対におかしいのです。「百姓が80%」なのです。それが農民が80%になったのは、「壬申戸籍」が百姓・水呑をすべて農にしてしまったからです。その結果、明治7年の公式統計が、農が80%になるのです。だからこの「百姓=農民」という「常識」は20〜30年たってもひっくり返ることはないでしょうね。100年にわたって日本人の頭に刷り込まれてきたわけですから。

 

商行為とは

網野 市場は境に設定され、そこはやはり神の世界に近い場所です。市場では相場を決める談合や饗応、そしてお祭りもやりますし、芸能もあります。それと同時に、これは私流の言い方ですが、市場ではすべてのものが「無縁」になる。つまり「神のもの」になるわけです。このことは中世史家の勝俣さんもはっきりと言っておられます。だから商品交換ができるわけです。ふつうの場所でものを交換すれば、贈与とお返しで人間の関係がむしろ緊密につながってしまうことになります。ものが「無縁」になる市場だからこそ、初めてものの商品としての交換ができるわけです。

 ですから、人間は神の世界へものを投げ入れることによって、初めてものを商品として商品交換をやっているわけです。その場合の交換は、神の場で行われる交換ですから、おのずから公平が保たれなければならなかったわけです。アダム・スミスが「国富論」で「神の手」といっていますが、商品の交換はものを人間の力が及ばない聖なる世界に投げ込むことによって初めて可能になりました。しかし人間は、「人の力の及ばないことをやっている」という意識がないまま、商品交換をしています。これまでの社会主義国は、そうした市場を権力で統制しようとしたわけです。

 もともと市場は本質的に、人間の力の及ばないところであり、商品流通はそうした世界を前提にしているわけです。ですから、人間は自らの力を超えることを市場でやっていることになります。

(オカヨ解説)今流行の金融工学などは、まさにこの神や仏、つまり自然に対する敬虔な姿勢が弱くなってきたものによるところでしょう。

 

農地改革とは何だったか。

網野 農地改革で、山林を持たない中小地主はみな没落しますが、たくさん山林を持っている大地主は金融や酒造、養蚕をやっており、みな生き延びるわけです。ですから例えば山梨県の政治地図は戦後も全然変わっておらず、やはり戦前の地主が中心になっていました。

 宮本常一さんが「忘れられた日本人」の中でたいへんに怒っています。農地改革は東日本の大地主の問題で、西ではこの改革で小地主がひどい目にあう結果になったと。

 

稲作地帯は近世の現象

網野 コメが非常に普及していたと主張する方々は、よく江戸では長屋の住民までがコメを食べていた、だから日本人はみなコメを食べていたのだと言われるのでしょう。実はあれは都市だけの現象なんですね。

(中略)

ですから、現在、コメどころといわれる東北のような稲作地帯が生まれてくるのは、近世的な現象なんですね。とくに近世中期以降のことでしょうね。渋沢敬三が戦後まもなく言い切っていることなんですが、東北のコメの生産は企業だというのです。流れ者が来て水田を開いたわけじゃなくて、企業として水田の経営をやっているというわけです。

 このような事例からわかるように、日本人がコメに思い入れがあるというのはあくまでも一面の事実だということを十分認識したうえで、コメ問題を考えなくてはいけません。一時期の、一事例をもって日本のすべてに及ぼしたりすると、現代のコメ問題についても本当の意味の解決の仕方は出てこないんじゃないか。

(中略)

農民はコメをつくっても租税として出していて、自分たちは食べない。その代わり、イネ藁を生活用具として使うわけですね。コメを食べるのはお祭りのときだけです。

(オカヨ解説)この日本人のほとんど(百姓)がコメは租税用につくっていて、自分たちでは食べなかった。コメは都市に集まり、都市の人だけが三食食べていた。百姓はコメを食べるのはハレの日だけで、代わりにイネ藁を生活用具として使っていた、という事実は現在の日本人にほとんど認識されていないでしょう。

 こうした事実を知らないまま、コメ問題等のTPPに絡んだことを語るのは非常に危険だと思います。